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写真を見返す1分が、今日を整える――小さな“めくる”習慣

外は静かな雨。
机の上に、ぬるくなったコーヒー。
通知はぜんぶ切って、アルバムを開く。

最初の一枚は、去年の夏の河原だった。
太陽が白く飛んでいて、川のきらめきだけが妙に鮮明。写真を見た瞬間、あの日の湿った風や、サンダルの指先に当たる砂の感じまで戻ってくる。記憶って、画像だけでなく「体の感覚」ごと起き上がるんだと、いつも思う。

写真を見返すと、機嫌が少し良くなる。
理由をうまく説明できないけれど、「今」に閉じ込められていた視界が、ふっと広がる。数ヶ月前の自分、数年前の自分、そのとき一緒にいた誰かが、ちゃんと生きていたことを思い出すからかもしれない。「まあ、今日もやっていこうか」という気持ちに、静かに方向づけられる。

もうひとつ起きるのは、現在地が整うこと。
「あの頃こう考えていた」「ここで決めた」「ここで迷った」——断片がつながって、いま抱えている悩みのサイズが測れるようになる。大事だと思っていた不安が、過去の写真の隣に置くと意外と小さかったりする。逆に、見ないふりをしていた課題が、笑顔の写真の裏でしっかり主張してきたりもする。どちらも、見返したからこそ気づける。

たまに、誰かに一枚だけ送る。
「これ、覚えてる?」と短く。深い話をするつもりがなくても、そこから近況が転がり出る。些細なやりとりでも、心の温度が上がる。写真が会話の呼び水になる瞬間が、案外いちばん好きだ。

最初から“習慣”にしようと思うと、構えてしまう。だから、僕は「一日一枚」を1分だけにした。朝の歯磨きの前、寝る前、乗り換えのホーム。時間はどこでもいい。ただ、アルバムを開いて、今日の自分に刺さる一枚をじっと見る。整理はしない。ラベルもつけない。スクロールしすぎて沼に落ちそうになったら、その場でやめる。続けるために、軽くする。

一週間ほど続けると、変化が見えてくる。
景色の色が濃くなるような、そんな変化だ。朝の空に目がいく。道端の影が面白く見える。写真を“撮る前”の感度が上がるのは、見返すという“後処理”の副作用なのかもしれない。過去に触れる時間が、未来の視界を整える。不思議だけれど、体感としてそうだ。

もちろん、見たくない日もある。
思い出すと痛む時期の写真にぶつかることだってある。そういうときは、容赦なくスキップする。習慣はやさしいものでないと続かない。無理をしないことも、続ける技術の一部だと、最近ようやく飲み込めてきた。

もう少し軽やかにしたくて、「遊び」の力も借りている。
写真で遊ぶ記憶ゲームを自作していて、数十秒でめくって当てるだけの仕組みなのだけれど、これが“見返すスイッチ”としてちょうどいい。どの写真が出てくるかは自分でもわからない。だから、忘れていた旅先や、季節の匂いに突然出会う。整理ではなく、思い出す。成果物ではなく、気分の整い方にフォーカスする。そんなささやかな遊び方が、日々のリズムに合っている。

気づけば、アルバムは“証拠集”ではなく、“呼吸”に近いものになった。
過去を引きずるのではなく、過去と腕を組む感じ。うまくいった日も、途方に暮れた日も、写真の中では同じ強度で生きている。それを見返して、今日の自分に少しだけ場所を空ける。たったそれだけで、日常は思っているより豊かになる。

スマホの奥で眠っている宝物に、1分だけ光を当てる。
雨の音を聞きながら、今日も一枚。
それで十分だ。

(写真で遊ぶ記憶ゲーム「Awase」: https://awase-game.carrd.co